株式会社 久保田運動具店 KUBOTA SLUGGER

BASEBALL POWER TO THE BASEBALL

創業者:久保田 信一 SLUGGER ROOTS

久保田 信一
  • 1910年(明治43年)生
  • 1987年(昭和62年)没

●久保田 信一
(明治大学時代)

「運動具の改善に就き研究努力致す可きは勿論 取扱品に就ては責任を似て精選し各位の御満足を得べく折角相計り可申し候間」

野球用具の改善、精選を責任を持って御満足いただける仕事をしていくこと

託された想いに真摯に応える姿勢=スラッガーマインドは、1936年(昭和11年)5月 創業案内の文面に
野球界の方々からの推薦状をそのまま伝えたことから始まり、
久保田信一が志したこの想いは、
80余年を経た今日においても変わらない「久保田スラッガー」の姿勢として継承されています。

このスラッガーマインドをもって、
豊富な経験と信頼ある協力者とともに、よりよいモノを生み出し続け、
プレイヤーと隣り合わせのパートナーとして在り続けることが「久保田スラッガー」の使命です。

久保田 信一

私立関西甲種商業学校(現・関西大学第一高等学校)にて野球を始め、
1929年(昭和4年)明治大学へ進学し、野球部へ入部。
練習では打撃投手も務め「東京六大学野球」では二塁手・遊撃手として
守備に活躍。
1931年(昭和6年)1932年(昭和7年)には
海外遠征メンバーにも名を連ねた。

「明治大学野球部史 第一巻」では、当時の仲間・先輩に志を持つ様子や、
自身の小柄な身体について触れ、
人一倍の努力家であったことが書き記されている。

●明治大学野球部(1929年)

練習に耐え、いい技術を吸収し、
環境に適したカラダを作り込むことで、
自信を持って向き合うことができ、
小柄な身体にも関わらず誰にも負けないスタミナを習得した

●「明治大学野球部史 第一巻」より
明治大学卒業後
「全大阪」にて遊撃手として野球を続け、
1934年(昭和9年)
「第8回都市対抗野球大会」にてチーム優勝へと導く。
当時のチームメンバーには、
伊達正男(早大OB日本生命野球部投手 全大阪監督)
牧野直隆(慶大OB全鐘紡内野手 監督 日本高野連会長)
三原脩(早大OB東京巨人軍内野手 監督 西鉄ライオンズ監督)
が在籍していた。
1948年(昭和23年)
第19回大会まで「全大阪」メンバーとして都市対抗野球出場を果たした。

●第8回 都市対抗野球大会 「全大阪」優勝

優勝に至るまでの激戦を制した「全大阪」の活躍は、
都市対抗野球大会40年史に詳細に記されている。

●1984年(昭和59年)には
「第8回都市対抗野球大会 全国制覇 同窓会」
が大体的に開催され、
優勝以来、五十年ぶりのメンバー再会となった。

現役選手としてプレイする傍ら、野球に対する想いと
当時関西在住の野球人からの推薦により、
1936年(昭和11年)5月「久保田運動具店」を大阪曾根崎に開店する。

1950年 プロ野球が発足した後も、
球団ユニフォームのオリジナルデザインや、
選手の手に合わせた野球用具の開発など、
プレイヤーとして培った「期待に応える努力」を人一倍こなし、
様々なオーダーに真摯に向い会うことによって、
野球界に
“知る人ぞ知る”ベースボールスポット
「久保田運動具店」“KUBOTA SLUGGER”を築き上げた。

●久保田スラッガー 初期ロゴマーク

  • ●久保田運動具店 大阪曾根崎
    開店時
  • ●久保田運動具店 大阪曾根崎
    新装開店時
  • ●【上】開店時シンボルマーク
    (スポーツ用品店)
    ●【下】田淵幸一氏(大阪曾根崎)
  • ●【上】大阪曾根崎(梅田本店)
    改装時
    ●【下】西鉄ライオンズ 中西太氏
    (福岡支店)

当時の「久保田運動具店」は“野球人のたまり場”と呼ばれるほど野球人が集い、行き交う場所だった。

阪神タイガースの入団勧誘を断り、チーム編成の協力者として選手と球団との縁結びに貢献していた話など、
アマ球界からプロ関係者とも交流が深く、数々の球界秘話が現代にも語り継がれている。

「久保田運動具店」を経営する傍ら、野球発展のために後進の指導に努め、
日本高等学校野球連盟、大阪府高等学校野球連盟の運営にも携わり、
1962年(昭和37年)、
大阪府高等学校野球連盟選抜チームの監督として韓国へ遠征し
「日韓親善交歓試合」を行う。
20日間に及ぶ在韓遠征において全12試合を行い、
日韓親善の目的を果たす。

1963年(昭和38年)第45回大会まで審判委員として、
その後本部委員として
1968年(昭和43年)第50回全国高等学校野球選手権大会にて
永年大会功労者として表彰を受ける。

選抜高等学校野球大会の選考委員を
第17回大会 1940年(昭和15年)から
第59回大会 1987年(昭和62年)まで努め上げ、野球界の改革・発展に全てを捧げる人生に幕を下ろした。

久保田信一から“受け継がれた野球魂”は現在のスラッガーマインドとして生き続けている

数々のプロ球団ユニフォーム・ウェアの製造に携わる

  • ●大阪タイガース ホーム用(1958年〜1959年)

    ●大阪タイガース ホーム用
    (1958年〜1959年)

  • ●西鉄ライオンズ Gコート(1960年代)

    ●西鉄ライオンズ Gコート
    (1960年代)

  • ●西鉄ライオンズ ウェア(1960年代)

    ●西鉄ライオンズ ウェア
    (1960年代)

  • ●西鉄ライオンズ ビジター用(1966年〜1968年)

    ●西鉄ライオンズ ビジター用
    (1966年〜1968年)

  • ●南海ホークス(1959年〜1968年)

    ●南海ホークス
    (1959年〜1968年)

  • ●南海ホークス(1970年〜1971年)

    ●南海ホークス
    (1970年〜1971年)

  • ●近鉄バファローズ Gコート(1960年代)

    ●近鉄バファローズ Gコート
    (1960年代)

  • ●近鉄バファローズ ビジター用(1966年〜1973年)

    ●近鉄バファローズ ビジター用
    (1966年〜1973年)

  • 1968年7月
    福岡支店 開店時(中央区渡辺通)

  • 1971年4月
    福岡支店 移転(中央区今泉)

  • 1989年11月
    福岡支店 移転時(中央区大手門)

2004年3月 東京支店 開店時